願慶寺の歴史

由緒沿革


1.泰澄伝説

 伝承によれば当寺の草創は極めて古く、養老年間、僧泰澄が白山を開くときに、当寺に立ち寄って一夜の宿としたという。
 また、古老の語る民話では、
 『昔吉野の地には大きな沼があり、そこに一匹の龍が住んで、絶えず雨を降らせ、村民は田畑を作ることができずに困っていたという。
ある時、たまたまこの地を訪れた高僧(泰澄か?)が泊めてもらった家でこの話を聞き、一晩の恩義に報いるため、三日三晩の祈祷の末、この龍を退治し、白蛇に姿を変えて、小さな祠の中に閉じ込めたという。
 この祠が願慶寺の起こりであり、そのため吉野(願慶寺)のホンコさまは、いつも(この龍が暴れて、天気が)荒れることが多いのだという。』
と語られる。   (「吉野の荒報恩講」という)

 しかし、こうした泰澄と寺院の縁起を絡めた伝承は、中世以降白山麓一帯の寺院で多く語られるところではあるが、史学者による今日の研究によれば、「越前の住人泰澄は、生涯一度も越前(現在の福井県)を出ることはなかった」とされ、飛騨・加賀で多く語られる「泰澄伝説」は、すべて後代の泰澄人気にあやかった後世の仮託話であるとされている。
 (報恩講の縁起話に養老年間の泰澄が出てくるのが、そもそもおかしいのですが・・・)

泰澄大師
解説   11〜神護景雲元・318(682767) 奈良時代の僧。越前の人。
神融、越大徳ともいう。俗姓は三神。加賀白山の開創者と伝える。幼くして仏道に入り、白山に登って妙理大菩薩
(ボサツ)を感得したという。また越後国上山に宝塔を建て、仏法の力で雷からこれを守ったという
 
(新潮日本人名辞典)








 白蛇となった龍は、吉野の寺の天井裏に今も住み着いて、火事から寺を守っているんだとか・・・
  (本堂の建替のとき、天井裏に
   白蛇は見当たらなかったって
   話だけども。)




2.開基慶誓





































 さて、こうした民間の伝承を離れて、当寺の由緒を伺うに、一向一揆せん滅の地として七箇村なで斬りを受けた当寺には、実は、「なで斬り」以前の資料は、殆ど何も残っておらないのであります。

 そのような中で、当時の開創を伝える文書として貞享二年(1685)の「寺社由緒書上」があげられます。この年の四月、加賀藩は、藩士のほか、領内の寺社や、特権を持つ家柄町人・御扶持人十村など、民衆統制の役割を負わされていた立場の人々に、一斉にその由緒を申告させました。寺社の場合は、これを「貞享の寺社改め」とよんでおり、この時提出された「由緒書上」が、加賀藩では、藩が公式に認めた寺社の基本台帳とされました。

 加賀藩ではこの時届け出のあった寺社を寺社奉行の配下とし、これ以降の新寺の設立を原則認めずに、以後設立の寺社は規模の大小に関わらず町奉行配下とされたそうですが、このとき願慶寺六代目の円察は、この指令を受けて、

由来就御尋申上候

一、当寺開闢者、永禄元年慶誓与申僧寺建立仕候、至当歳百弐拾八年住持、拙僧迄六代ニ罷成候、当寺代々加州石川郡吉野村ニ居住仕、居屋敷地子地ニ今以罷在候
右之外、由来并縁起・寄進状等無御座候、以上

加州石川郡吉野村東方浄土真宗
願慶寺
           貞享二年六月四日 円察
(石川県立図書館蔵)

と、提出しており、永禄元年(1558)慶誓建立を伝えております。

また、金沢市立図書館蔵の「三州寺号帳」にも

永禄元慶誓 同郡吉野村百姓寄進地 願慶寺

とあって、同様の伝を伝えております。

 慶誓の出自については、何も伝えられておらず、あるいは法敬坊順誓四代の孫とされる法敬坊慶誓や、超勝寺下の越前の国慶誓などを想定してもみましたが、いずれも確証は何もありません。

 加賀一向一揆の最中、最大の内紛といわれる享禄の錯乱から27年あまりを経て、【百姓の持ちたる国】加賀がもっとも安定を迎えた時期、その一揆領国加賀の中でも、ひときわその重要性から加賀四郡と同格の、独立した行政単位として扱われた【山之内】に、慶誓という僧によって建立されたのが願慶寺の開創であったようです。
※当寺山之内は軍事・交通上の要衝をしめ、本願寺の行政単位としても独立した一郡としての扱いを受け、加賀四郡の中の一地域でありながらも、他の四郡とは同格の一郡としての扱いを受けた重要な地域でした。

 時に本願寺が榮譽を極めて准門跡に列せられる前年、折りしも後に願慶寺と強い縁で結ばれる教如上人がお生まれになられたその年に、奇しくも吉野願慶寺は創建されたのであります。

教如上人
解説 永禄元〜慶長19(15581614) 織豊・江戸前期の浄土真宗の僧。摂津(セッツ)生れ。顕如の長男。童名は茶々丸、諱(イミナ)は光寿。
諡号
(シゴウ)は信浄院。元亀元年(1570)得度(トクド)。同年から始まった石山本願寺合戦は、天正八年(1580)(ウルウ)三月講和が成立、翌月顕如は紀伊鷺森(サギノモリ)に退いたが、教如は同年八月まで籠城(ロウジョウ)、織田信長に抗戦した。文禄元年(1592)顕如の死去に伴い本願寺12世を継いだが、翌年豊臣秀吉の命により弟 准如に譲って退隠。慶長七年徳川家康から京都烏丸(カラスマル)七条に寺地を得て、翌年東本願寺を建立、12世となり、ここに本願寺は東西に分裂した。
  
(新潮日本人名辞典)

 




3.
教如上人

 こうして、加賀一向一揆の黄金時代に、本願寺の栄光の中に建立された願慶寺でありましたが、前述のように【なでぎり】以前の消息は何も伝わっておりません。

 当地に伝わる伝承として、願慶寺が出て参りますのは、やがて一向一揆の末期を迎え、願慶寺とともに誕生された教如上人が、歴史の表舞台に登場してくるのを待たねばならないのです。

 ・天正三年(1575)、越前一向一揆崩壊、虐殺
 ・天正八年
(1580)閏三月、顕如上人、石山開城。
 ・同年四月 金沢御坊落城。加賀一向一揆崩壊

 すなわち、顕如上人が織田信長と講和を結び石山退出されるにあたって、はじめて法嗣教如上人が、和睦に反対するという形で歴史の表舞台へと立つことになるのですが、実際信長は講和条件を無視して金沢御坊を攻略し、加賀の一向一揆の中枢を破壊してしまいます。
 これに対し、山之内衆は、和睦に反対する勢力と共に、織田軍に占領された金沢御坊を奪回すべく反撃に転じ、八月に顕如上人の無事を確認された教如上人が大阪を退城されますが、その後も合戦を継続し激しく抵抗を試みることになるのです。

 こうした中、当寺に伝わる『由緒』として出てまいりますのが、

『・・・教如上人、織田信長公の刺客の難を避け、諸国御流寓の御時、・・・・当寺に隠棲したまふこと数ヶ年、・・・・』

とある寺伝でございまして、この故に当寺は、「教如上人旧跡地」を現在にいたるまで称しておるわけでございます。

 石山本願寺を退去後の教如上人の足取りについては、明確な資料はなく、あきらかではないのですが、朝倉嘉祐氏は、その著『吉崎御坊の歴史』の中で、

 「同年八月二日、教如一行は石山坊で信長と戦うことの不利をさとって退出した。本願寺顯如は加賀四郡、鈴木出羽守、山ノ内衆宛にこう通告している。「家中の恥辱これにすぎるものはない。教如らは昨二日に大坂を退去したが、言語道断の仕方であり、抗戦をやめて当方の指示に従うべきこと。寺内織部、井上善五郎がやってきたら、すみやかに成敗せよ」 顯如のこの沙汰書によって、教如一行が加賀国をめぎして下向したことがわかる。」とされ、

 また大桑斉氏は、「教如−東本願寺の分立」の中で、

「あるいはまた、教如は加賀白山の北麓吉野谷に来ったともいう。この地の願慶寺にこの伝承がある。このころ、この地は、加賀の中心部が制圧された後も、なお鈴木出羽守を将とする山内一揆として抵抗をつづけ、この地域を確保していた。九年十一月には鈴木出羽守が誘殺されたものの、十年三月に大虐殺をうけるまで頑張っていたのである。吉野谷への下向があったとすれば、この時点以前においてであったろう。」(小学館『(宗派別)日本の仏教・人と教え4 浄土真宗』所収)

と述べて、この時期の教如上人の当寺への立ち寄りの可能性を示唆しておられます。

 実際のところ、この「数ヶ年・・」というのは、明らかな誇張でしょうが、当地の門徒と教如上人との間に何らかのつながりがあったればこその、一揆後の「山之内庄内三十三箇村直海谷九箇村総道場」の名称と教如上人寿像(裏書:加州山内庄内惣道場)の下付があったのではないかと思います。

 とにかくこのおかげで、近年まで、教如上人が直接取り結ばれた「お講」を取り持つ寺として白山麓において特別の立場を保つことができたようです。
























4.七か村なでぎり

 さて、天然の要害として鳥越城を中心に圧倒的な力を誇っていた山内衆のもとへは、当初、全国の有力寺院が結集しておりましたが、やがて信長の圧倒的な戦力の前に徐々に形成が不利になっていくと、門信徒たちを一揆に駆り立てたこれらの大坊寺院たちは次々とこの地を去ったり、戦死していきました。
 十一月にはいると、山之内衆に手を焼いた柴田勝家は、和睦と称して、鳥越城の鈴木出羽守ら一揆の指導者を松任城におびき寄せ、謀殺してしまいます。 指導者を失った鳥越城は、まもなく柴田勝家の軍勢によって落城したといいます。

 しかし、一揆の主戦力として名をはせていた「山之内衆」は、こうした教如上人との特別な関係も手伝ってか、翌天正9年(1581)三月、織田軍の主力の不在を好機に再び蜂起し、柴田勝家が支配の拠点とした二曲城を攻略しましたが、金沢より駆けつけた佐久間盛政軍に再び奪還されてしまい、完膚無きまでに解体されてしまったといいます。

 これに勢いづいた柴田軍は、更に四月には、越前一向一揆の中心である瑞泉寺討伐を行い、佐々盛政・神保長任の連合軍は、越中砺波の一揆の旗頭である安養寺、勝興寺を不意打ちして焼き払い、井波瑞泉寺へと迫りました。越中一揆勢は井波に立てこもり、大変な激戦となりましたが、合戦はおよそ二ヶ月におよび、焼かれた民家は三千戸であったといいます。同年六月、井波城は落城し、一揆勢は五箇山(白山南麓)へと逃れて、ここに北陸の一向一揆は終焉を迎えることになりました。

 ところがその翌年、願慶寺のあった山ノ内北谷(手取川流域のうち、大日川の合流点から牛首川と尾添川の分流点との間)七ケ村は、各地の一揆勢が抵抗をやめ、一揆を指導した大坊主たちが次々と山之内を逃げ出していくのを尻目に、文字どおり上人直属の本願寺門徒として最後まで踏みとどまって、なおもすでに勝ち目の見えなくなった戦に突入していったのであります。

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 しかしこの決起は、すでに織田方に降伏していたかつての仲間たちの裏切りにあい、吉野・佐良・瀬波・市原・木滑・中宮・尾添の七ケ村の村々は徹底的に破壊され、多くの村人が磔にされて、幕を閉じたのでありました。(捕らえられた三百数十名以上のものが磔にされ、目を覆わんばかりの有様であったと伝えられる)

 それからわずか数ヶ月後、織田信長は本能寺で明智光秀に討たれ、白山の南麓である五箇山付近に潜行されておられた教如上人は、鷺森の本願寺へとお帰りになられました。




5.再興

 こうして、天正101582)年三月一日に行われた「七箇村なで斬り」によって、吉野の地は数年にわたって不毛の地と化し、住む人の無いありさまとなってしまったのだそうですが、やがて諸方に散らばった人々が徐々に戻りはじめ、数年を経て加賀藩に集落の再興を願い出て、ようやく再建に向かったといわれます。

 こうした中、教如上人自らが切り開かれた本願寺門徒達は、まず自分達の信仰の拠り所となる惣道場をいち早く再建していったであろうことが推測されます。

 一方、文禄元年(1592)京都に本願寺が再建され、更に同十一月に顕如上人が遷化されますと、教如上人は正式に本願寺の門跡となられました。しかしそれもつかの間の、翌文禄二年(1593)、突然の太閤秀吉の命により、末弟の准如上人に門跡の地位をゆずって裏方に退隠させられるという事件がおこりました。

 そうした最中の、文禄4(1595)年九月二十日に、加州山内庄内惣道場願慶寺三十三箇村 門徒あてに、石山合戦の報奨として、教如上人より、【宗祖御影】が下付されました。

 これにより、この頃既に惣道場が再興され、教如方として活動していたことを知ることができます。また、この時点で既に願慶寺という寺号が裏書きされていたとされている点は、【寺号公称】の時期を巡って興味深いところですが明治中期以降摩耗してしまって、今日では確認できまないのが残念なところです。

 また、教如上人免許と伝える【木像本尊】(鎌倉後期〜室町初期の作)と、教如上人筆の【九字・十字の名号】も、伝来しており、当寺と教如上人との深い関係が偲ばれます。

 こうした教如上人との深い縁で結ばれた山之内衆と願慶寺でありますから、東西分派の折には一丸となって教如方に与したと伝えられ、白山北麓一帯を教如方としてとりまとめた功績に対する報奨として、慶長9年(1604)十二月四日(東本願寺分立二年後)には、更に【教如上人の御寿像】が下付されております。

 一向一揆を教如上人と共に戦った、上人直属の本願寺門徒達は、ここにこの御寿像を生身の教如上人の如く崇め、複雑に入り組んだ山之内の寺檀制度を超えて、四十二箇村の広域にまたがって維持される自分達の惣道場を形成していったのであります。
 一般に惣道場は、ごく限られた地域を基盤として成立するものなのだそうですが、こうした広範囲に広がる形で形成された惣道場は
非常に珍しいそうです。 

 こうして、山之内衆は惣道場の整備を進め、続く十三代宣如上人(在職1614-1652)の代には、太子・七高僧の下付を得て五尊の完備を終え、加賀藩の真宗寺院としては早い時期に寺院としての体裁を整えて、 以後今日に至るまで、四十二箇村の道場及び御講衆の手によって輪番され、白山北麓の聞法の根本総道場として崇信護持されてきたものであります。

6.近世以降の願慶寺



 享保2年(1717)に、茶釜の名人二代目寒雉により鋳造された梵鐘の銘には、
「加賀國石川郡東谷総道場願慶寺」とあります。
 『白峰村史』(浅香年木氏)に、「天文14年(1545)の白山争論の文書に「結城知行分 山内惣庄三組」とされるように、中世末になって大日川の西谷、牛首川の東谷、尾添谷の三つの谷が広がっていた」とあることから、〔東谷〕とは牛首川(手取川上流)の流域の谷を指すようです。願慶寺が江戸時代には、主として山内東谷(尾口村〜白峰村)にかけてを基盤にしていたらしいことがわかります。
 尾口村〜白峰村にかけては、手取川ダムの建設によって多くの村落が水没した前住職隆幸(17代)の代まで、冬季間「奧まわり」と称して、住職が、およそ半年間、寺を留守居に預けてそれらの山間(やまあい)の村々を廻るのが願慶寺歴代住職の勤めであったそうです。
 江戸時代において寺院は、所謂【檀家制度】という形で、いまの戸籍を管理するお役所のような役目を果たす役目を押し付けられたといいます。しかし、願慶寺はこのような特性からか、【檀家制度】の枠組みに組み込まれることなく、教化活動を専らとする形で存続してきたようです。
 加賀藩において檀家(門徒)制度が確定されたのは元禄年間に入ってからだといわれ、白山麓は本覚寺・歓喜寺・本光寺等の小松や金沢の御大坊(手次寺という)の門徒となりました。願慶寺は特に門徒を定めることなく、それでいて白山麓全域を信徒とする形でこれらの大坊に順ずる形で、在地の寺院や道場、門信徒たちによって護持されてきました。
 それでも、明治の初年の頃には、白山麓の各所に下道場や門徒が散在したとも聞きますが、明治初めの社会的混乱と明治五年の『無檀無住寺院廃止命令』等による下道場の再編が進む中でその大半を失ったといいます。この間、願慶寺も無住となった期間などもあって、15代観慮の代には、「檀家一軒」と記された資料(明治11年9月「現況報告」;但し同年製作の別の本山報告には檀家140戸とある)も残っています。その後到縁(16代)の代(明治末〜大正初頃)に、地元の吉野区の要望によって、吉野区(約180戸)すべてを檀家として、今日に到っていると聞きます。
 その間に、上吉野の大火事等を機会として、およそ50戸余りが、北海道へ移住していきました。

 加賀藩下の真宗寺院としては比較的早い次期に寺號を公称し、寺社奉行の配下にあった願慶寺ですが、山内庄内惣道場としての伝統からか、住職家個人の専有とはせずに、今日に到るもなお門信徒の共有財産として一定の発言権を持ち続けるのも、白山麓各村の合議によって、永年門信徒の手によって護持されてきた願慶寺の特徴の名残であるといえましょう。


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