※山内荘(山之内庄)
能美・石川両郡にまたがる白山宮により、支配された地域。白山比メ神社の南方四qの福岡を中心とし、石川福井県境の谷峠に至る国道一五七号線沿いの牛首川流域の地と、東の尾添川、西の大日川沿いの谷合部落一帯の総称。鎌倉時代以来、四つの地域にわたり、組的結合を形成していた。牛首組・尾添組・二曲組・吉野組からなる。


関連年表
文明三(1417)年 七月より、蓮如吉崎に滞在。
文明四(1472)年 九月,冨樫氏に対する一揆。(山内に潜伏する冨樫政親を攻撃)
文明七(1475)年 敗れた加賀門徒が、井波瑞泉寺へ逃げ込む。
これを恐れた越中守護らが、瑞泉寺攻撃(一揆の越中への拡大)
長亨二(1488)年 政親滅亡。これ以後、山内衆一向一揆の有力な拠点となる。
亨禄四(1531)年 五月九日大一揆・小一揆
天正八(1580)年 尾山御坊落城
三月顕如上人、信長と和睦、石山本願寺を退出。
八月、徹底抗戦を叫んだ教如上人も石山退出。
十一月、鳥越城主鈴木出羽守父子、松任城に呼び出され謀殺
天正九(1581)年 三月、吉野衆・二曲衆決起。
二曲・別宮二城を包囲。佐久間盛政の攻撃で、壊滅的打撃を受ける。
天正十(1582)年 吉野衆、再々起。
盛政軍の掃討を受ける(一向一揆の終結)吉野・佐良・瀬波・市原・木滑・中宮・尾添・荒谷を焼き払い、三百人程を虐殺す。(七箇村根絶やし)




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